ROUNDABOUT
3.低回
外光の遮断された薄暗い部屋の中で、ゆっくりと行き過ぎるまどろみをやりすごす。停滞した意識の中でふと、自身の口腔が訴えるにぶい痛みに気付いた。
喉がひどく渇いている。
まるで、ひとごとのように現実感のなかった欲求が、遠くから津波のように押し寄せて、力なく転げていた吉良の頭をひきおこす。ふわりと、まぶたにふれている光に気付いたのは、その時だった。窓のない部屋に一条の明かりがさしている。薄目を開けて光源を辿ると、とびらのすきまからかぼそい明かりが伸びていた。
一瞬、沈み込むようなだるさを忘れ、身を起してみる気になったのは何故だろうか。
白光に照らされたまま、横たわる事に違和感をおぼえたからか。それとも、より強い光を見たくなったからだろうか。
何の答えも出せない真っ白な頭を抱えたまま、吉良はかべに手をかけ、ゆっくりと起き上がる。めまいにふらつく足をなんとか踏み出して、光の道筋をたどった。
ほんの一条の光。それでも、完全に閉じられた扉なら、決して、そのわずかな油断を許さない。そっと、手をかけると、重い鉄の扉は音もなくスウと開いた。
鍵は、かかっていなかった。
ふいに、目前へと開けた白い廊下。吉良は、その中を、うつろな頭を抱えたまま歩き出す。どこに行くあてもなく、ただ押せば開く戸を押し開け、分かれ道につきあたるたび、右へ、左へ、進む道をきめた。ときおり近づいてくる人の足音を、ほぼ無意識のうちに気配を殺してやりすごす。そうやって、薄闇の中をどれほどさ迷ったあとだろうか。目前に立ちふさがる大きな圧迫感に、吉良は、伏せていた面をあげた。闇夜に白々と浮かび上がる巨大な白壁。
東大聖壁だった。
瀞霊廷の中でも最大の行政地区。その一翼を守護する白亜の外壁は、うすやみのなかにあってなお、厳然としたその全容をはっきりと浮かび上がらせている。この壁が、幻の血涙に濡れたあの日。ここに吊られていた藍染隊長のまぼろしは、彼の目にもはっきりとそのかたちに見えていた。そして吉良は、おこるべくして起こった彼女の悲鳴を聞いたのだ。
今となっては、流された血痕が残る事もなく、静かな眠りについているこの場所で、過去、確かに生じた事実を振り返るように、ぐるりとこうべをめぐらせる。
ふいに、惨劇の前日、「藍染の死」を予告した市丸が浮かべて見せた、滲むようなあの笑みが、吉良の脳裏を過ぎった。
そして、錯乱した桃が、自身の上官の喉首をねらい斬りつけていった時、なぜその行く手を塞いだのか。吉良は、そんな事を思う。隊長の右手には明白な殺気がこめられていた。にもかかわらず、彼があの時、雛森を切っていたかというと決して切ることはなかっただろう、と、そう本能がつげていた。その確信は一体どこから来たのだろう。
「隊長は、これからどうなさるおつもりですか?」
吉良の問いに、市丸は長い間、黙していた。今振り返ってみれば、彼はあの時、藍染隊長が進めつつある計画の一端を明かそうとしていたのではないか、そう思い当たる。そして彼は、長い沈黙のあと、口にしようとした言葉を断ち切ったのではなかったか。
惨劇の日。激高して市丸に切りつけた雛森をさえぎって口にした隊長への忠誠。公のためなら、私情を断ち切って見せると、その言葉は嘘ではなかった。ただ、その裏で自身の手が血に染まる前に、隊長が、引き止めてくれることを期待していた。
自らが雛森の血で汚される事はないと、その期待のもとに斬りつけた手が、日番谷によってさえぎられたとき、吉良の目は、市丸の姿を追った。
ほんの刹那、垣間見えた彼の横顔には何の表情も見えず、
吉良の視線に気付いてなお、決して、その顔がこちらに向けられることは無く、、、
そして、そこから意識がはじける。
とめどなく押し寄せた混乱のさなか、吉良は何度も、ただ一人、置き去りにされる夢をみた。
「ついておいで、イヅル」
その声が欲しいばかりに、ただその声の望むままに。
何の覚悟も決めぬまま、言いなりになってさえいれば、隊長が名前を呼んでくれる。そう、期待して、その手が得られないと崩れてしまった。
だからこそ、市丸は副官であった自分に、何を言い残すこともできず、一人で去っていったのだ。
「彼の視線を、真正面から受け止める事ができなかった、、僕は、隊長の後を追いながら、その実、ずっとあの人の視線から、
、、、、逃げていたんだ」
思わず、口に出した小さな呟きは、ほんのつかの間、空を震わせ、すぐにとけ消える。
吉良は、額を真っ白な壁に押し付けたまま、自分の呼吸音を聞いていた。一度、高まった心音が次第に下がっていく。ゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。もう一度息を吸って、高い、高い壁の先を見上げ、、、、ぱっと、その踵をかえした。
次第に鮮明になってくる感覚。研ぎ澄まされた五感にしたがって、吉良は走る。視界のきかない夜道も走行の苦にはならず、むしろ深く澄んだ空気が、捜し求める人のわずかな気配を鮮明に伝えてくれる。
月夜にしずむ瀞霊廷の中枢をかけぬけ、ひとつの巨大な建物にたどりつく。急患にそなえ、門前に煌々と明かりのともる四番隊、綜合救護詰所。その一角に、雛森は眠っている。
便宜上、常に開かれている救急用の入り口から、気配を殺して忍び込む。向かう上級医療病棟までは、そう時間もかからなかった。ぽつり、ぽつりと灯る非常灯をたどるように、吉良は早足で白い廊下を進んでいく。その先に、自身が追う気配の小さな源があった。
カタリ。
無機質な扉をちゅうちょなく押し開き、吉良は、初めて立ち止まる。廊下と室内を区切るほそい敷居のむこう、窓からさしこむ光の下に、包帯を巻かれて横たわる雛森の姿がみえた。
かすかな胸の上下動に合わせて、ゆっくりとしたリズムを刻むおだやかな呼吸音。そのかすかな音にさそわれて、恐る恐る部屋の中へ、一歩、足を踏み入れた。
近づいて見れば、やわらかな稜線を描く彼女のほおが、今は青白くくすんでいる。それでもなお、ふっくらとほのかな丸みを帯びたその肌に、ふと、触れてみたくなって、ゆるゆると右手を差し伸べた。指先を掠めるかすかな息がこそばゆい。頬に触れようとする、そのせつなに、吉良の動きが止まった。
何度も、煩悶をくりかえす。差し向けた手のひらに全ての思いをこめるかのように、じっと、自身の掌を見つめた。
「、、、、雛森、、、君、、、」
こみ上げてくる嗚咽を押さえつけるために、両のてのひらで自身の顔面を覆いこむ。
「雛、、、」
この両手で、今、彼女を抱きしめたいと思っているのか、
それとも、謝罪のことばさえ口にせず、ただこの頭を握りつぶし、彼女の前から消え去ってしまいたいのか、
吉良は、わからなくなった。
じっと、息をころして激情が行き過ぎるのを待つ。
すぐ近くで雛森のたてるおだやかな寝息が聞こえていた。その音に、耳をすます。
そして、ゆっくりと瞳を閉じて、深い息をはいた。
「、、、ごめん」
口にする事すらためらわれる謝罪の言葉だ。たとえ、明日彼女が目覚めるとしても、もはや、顔をあわせて許しを請う事などかなわない。こみ上げてくる涙を決してこぼさないよう、彼は、じっと天井を見上げた。
「僕は、市丸隊長を、、」
決して、伝えるつもりのない許しを請う言葉を、胸のうちにしまいこむ。はるか昔に熱をもったあつい思いが、手が届かないほど遠くへ過ぎ去るのをまって、吉良は、雛森のもとをあとにした。
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